オーケストラ・ディマンシュ第10回演奏会
十二音技法を発想したシェーンベルクは「これで今後100年間のドイツ音楽の優位は保たれた!」と叫んだが、“真のドイツ”を標榜するドイツ社会主義労働者党(ナチス)政権は、当時の前衛とその旗手たるユダヤ人を嫌い「頽廃」として圧した。この芸術政策によって第三帝国下を逃れ新天地へと渡った音楽家は、当のシェーンベルクを始めとして枚挙に遑がないことは、当団の演奏会に毎回足を運んでいただいている諸兄には毎回のプログラムでの拙文でお馴染みの歴史的事実であろう。
その亡命者のひとりであるバルトーク・ベーラの朋友として共に民謡研究を続け、ハンガリー民謡をふんだんに用いた歌芝居(Singspiel)を残したのが、今や世界中で実践されている“コダーイ・メソード”と呼ばれる音楽教育法を確立した教育者としても有名な、コダーイ・ゾルターン(1882-1967)であり、バルトークの勧めに従ってその歌芝居から管弦楽用の組曲として編纂されたのが組曲『ハーリ・ヤーノシュ』(1927)である。
ハーリ・ヤーノシュとは、19世紀のハンガリーの詩人ガーライ・ヤーノシュ作の叙事詩の主人公となっている人物で、ドイツにおけるミュンヒハウゼン男爵(所謂「ほら吹き男爵」)とよく対置される、ハンガリーでは最も知られた昔話の主人公といえる。コダーイは、このハーリを単なるほら吹き爺さんとしてではなく、根っからの農民(即ちマジャール民族の代表)であり、美しい夢を語る詩人として捉えている。
組曲の第一曲「前奏曲:お伽話は始る」はまず全管弦楽による壮大なくしゃみから始る。これは、ハンガリーでは話の途中にくしゃみが出るとその話は本当のことだという言い伝えをもじったもの。以降、管楽器と打楽器のみを用いて機械的な響きを表した第二曲「ウィーンの音楽時計」(第二幕)、最も古い部類のハンガリー古謡をそのまま用いた第三曲「歌」(第一幕)、トロンボーンの大胆なグリッサンドと舞台作品では珍しかったサックスで滑稽さを表した第四曲「合戦とナポレオンの敗走」(第三幕の切り張り)、“ヴェルブンコシュ”という古くから伝わる兵隊勧誘の舞踊を組み合わせた第五曲「間奏曲」(第二幕への間奏曲)、そしてきらびやかな宮廷を風刺を込めて描く第六曲「皇帝と宮臣の入場」(第四幕)、と、ジングシュピールの物語の進行にはとらわれず、組曲としてのまとまりを重視した楽曲配置がされている(各曲の場面は左頁の子供向け解説も参照)。
いかに教育者コダーイの作品とはいえ、ハンガリーの民謡素材をほぼそのまま用いたこの舞台作品を歌劇場で上演するのは当時としてはあまりに通俗に過ぎて異例のことであったというが、マジャール民族としての誇りを愛国的に謳いあげるその内容ですぐに国民的な人気を得た点では、同時代のバルトークの舞台作品の受容のされ方とは正反対であったといえよう。これは音楽の素材を同じく民謡に求めた二人の音楽的方向性の違いを如実に示している。
コダーイは、ナチスによる祖国の蹂躙を嫌い亡命したバルトークとは異なり、ハンガリーに止まり、バルトークの残した民謡研究資料を引き継いだ。左派政権とも関係のあったコダーイは、二次大戦後のソヴェト政権下でも重要な人物として教育者としての精力的な活動を続けた。その作風が当初から、民謡素材をできるだけそのままに用い、前衛とは異なる手法であったことは、社会主義政権の求める「社会主義リアリズム」に合致していて興味深い。コダーイはその意味では社会主義体制下において、自身の芸術信条を変更する必要はなかったのだった。
しかし、一方で、社会主義体制下において死の恐怖に曝され乍ら、一見迎合したかに見えて強かに生き抜いた芸術家もいた。その死後に西側で発表された『証言』という書物によってその作品の受容が大きく変わった、ドミトリー・ドミトリーヴィチ・ショスタコーヴィチ(1906-1975)である。第一交響曲でその名を一躍西側にも広めた彼(「ソヴェトのモーツァルト」と呼ばれた)は、演劇や映画工房などとのつながりの中で、ある意味、当時の前衛を担う新進の若手音楽家として様々な分野で活躍していた。映画音楽『新バビロン』『女ひとり』や劇音楽『ハムレット』『南京虫』、そしてバレエ『黄金時代』『ボルト』などといったキッチュな作風と、歌劇『鼻』や第二交響曲の前衛手法、第三交響曲の歌謡性など、実に様々な様相を見せる彼の最大の作品が、1936年1月28日付けの「プラウダ」紙(ソ連共産党中央委員会機関誌)上の「音楽のかわりに荒唐無稽」と題された社説により徹底的に糾弾された歌劇『ムツェンスクのマクベス夫人』であった。そして、続く2月6日付けの社説「バレエの嘘」が彼の3作目のバレエ『明るい小川』を糾弾したことで、彼は“人民の敵”というレッテルを貼られてしまったのである。まさにこれが、文学者や芸術家に対する大粛正の始まりの時期であった。だが、ショスタコーヴィチはここで亡命や、甘んじて死を受け入れることはしなかった。作品に幾重にも意味の迷路を構築することで生き延びたのである。そして、第四交響曲をお蔵入りさせた彼がこれらの批判から約1年10ヶ月後に名誉回復を勝ち得たのが、気鋭の新進指揮者Y.ムラヴィンスキーの指揮により初演された交響曲第5番Op.47(1937)であった。人間<個>の存在と、それを抑圧する巨大な存在との闘いを描いたこの作品は、闘いの始まりと破滅、薄れ行く意識の中で夢見る倖せを描く第一楽章、グロテスクなワルツの第二楽章、そして、巨大な存在の前に斃れていった者達への鎮魂歌あるいは野辺送りの慟哭が胸を衝く第三楽章を経て、最も解釈の困難な終楽章へと続く。 恰も鞭打たれ、無理矢理引きずられていくようにテンポは徐々に速くなっていく。巨大な存在の鉄槌が再び振り下ろされた後のコーダは果てしない闘い。しかし満身創痍になりつつも、<個>は希望を捨てていない。いつの日にか勝ち得る勝利を夢見て。それはショスタコーヴィチ自身の姿であるかもしれない。ここでの「巨大な存在」とは、特定のイデオロギーでも特定の権力者でもなく、個の人間性を否定し抑圧する、「非人間的」存在を示しているように思える(例えば、「民族浄化」と称して人種的迫害を行う暴挙、「人道的行動」と称して主権国家を爆撃する傲慢さ、など)。
現代音楽の前衛の本流とは離れてはいたが、彼等二人の作品は紛れもなく今世紀の社会と人間を映す傑作であるといえよう。