オーケストラ・ディマンシュ第11回演奏会


解  説

 人はある時、自らが昇ってきた螺旋階段を見下ろし、或いは昇り行く先を見上げて、その円環の始まりと終わりについて想いを廻らせる。その円環は“人生”と呼ばれ、意志に拘わらず人を衝き動かす偉力は“運命”と呼ばれた。これは、古代より人間と云う存在にとって大きな問題として常に思索の対象であったといえよう。自分が歩んで来た道程は如何なる意味を持っていたのか、これから進み行く先は何処なのか。自らの意志で切拓くべき道、或いは因果に拘わらぬ定めとは何なのか。それは恰も、遠い銀河へと旅する鉄道に乗り合わせた少年が手に入れるべき答えであり、逃亡した人造人間を追う特殊捜査員が解き明かさねばならない問題とも重なりあう。文明社会が生まれて以来、思索を生業とする哲学者はもとより、文藝作家、画家、そして音楽家もまた、人生と運命について思索を廻らせ、各々の答え(或いは答えに至る過程)を、後世の我々に残してくれている。我々はそれらを見聞きし、自らの体験に照らして、己の人生と運命について・人という存在の原初から終焉までのサイクルとそれを廻らせる力について、想いを馳せるのではないだろうか。
 音楽においても、「運命」や「人生」を主題とした作品は枚挙に遑がない。それは畢竟、かのベートーヴェンによって打建てられた創作態度であるともいえよう。爾来、こと交響曲という分野に於いては尚のことその傾向は強いと言って過言ではなかろう。これはドイツ音楽の系譜のみならず、欧州諸国の作曲家にとっての共通項であるようだ(純音楽たる交響曲に限らず、イタリアオペラにはそのものずばり『運命の力』なる歌劇もある)。こうした主題は、当初西欧の音楽文化を受け入れながらも民族独自のメンタリティを前面に押し出した形で確立されたロシア音楽には、その民族的性質からか、非常に合致するものとなった。ロシアにおいては、交響曲は純粋な形式美よりも、憂鬱な心情の連綿とした吐露から激情の迸る様までを、抒情性・叙事的性格を以て豊かに表現するドラマティックなものとなったのである。そして、そのような“ロシアのシンフォニズム”ともいうべき頂点を築きあげたのが、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840-1893)であり、そうした作品として確立した彼の“運命交響曲”が、交響曲第4番ヘ短調Op.36(1878)である。
 当時のチャイコフスキーについては、9歳年上の富豪の未亡人ナデジダ・フィラレトヴナ・フォン・メックとの関係を抜きには語れない。彼女は1877年から約14年に渡ってパトロンとして年金の援助を行い、文通を重ねたが、生涯一度として直接二人が顔を会わせることがなかった。彼女の資金的援助によって、チャイコフスキーは作曲活動に没頭することができたのである。77年5月には、歌劇『エフゲニー・オネーギン』とともに、この第四交響曲の作曲を開始したことを彼女宛の手紙に認めている。同時期に、チャイコフスキーは面識のなかったアントニーナ・イヴァノヴナ・ミリューコヴァという28歳の女性の情熱に押され結婚する。押し掛け女房との結婚生活は、果たせるかな僅か2週間程で破綻(チャイコフスキーはその後に家出と自殺未遂に至る)し、療養に訪れたイタリア北西部のサン・レモにて、この交響曲を完成させた。まさに人生の波瀾の時期に符合するかのように、交響曲は激しい絶望と儚い夢、幸福への希求に満ちている。また、この作品は明確な標題性を持ち、メック夫人に宛てた手紙の中でチャイコフスキーはこの作品が自身の“運命交響曲”であることを明言し、各楽章の詳細を解説している。運命の偉力により絶望の中にある人間が夢に逃避し、再び現実に引き戻される様を描く第一楽章、疲れ果てて憂鬱に沈み、過ぎ去った昔を嘆き懐かしむ第二楽章、酩酊の中に浮かんでは消える夢幻を描く第三楽章を経て、第四楽章では、人々の幸福を見ることで生きる勇気を得ようとする。様々な民謡素材を用い劇的に変化する楽想は、苦悩し彷徨する人間の姿を克明に描き出しており、名曲として人口に膾炙するに相応しい。その後の第五、第六交響曲を考えれば、チャイコフスキーの交響曲はまさに“鳴り響く人生”であった。

 さて、チャイコフスキーの後、その流れを引き継いで、世紀末から20世紀初頭にかけてのロシア音楽は確固たる地位を築き上げた。その中でも中心的な役割を担ったのが、アレクサンドル・ニコラーエヴィチ・スクリャービンと、彼とはモスクワ音楽院の予備塾であるニコライ・ズヴェーレフ主宰の私塾時代からモスクワ音楽院までの同門であったセルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ(1873-1943)である。
 卒業制作の歌劇『アレコ』が好評を博した(チャイコフスキーも賛辞を送ったという)新進作曲家兼ピアニストは、指揮へも活動の場を拡げるが、1897年にグラズノフの指揮で初演された交響曲第一番(作曲は1895年)が悲惨ともいえる失敗に終わり、極度の神経衰弱に陥ることになる。この事件は恰も彼の人生に振りおろされた運命の鉄槌であった。その後、ニコライ・ダール博士の精神治療を受け、第二ピアノ協奏曲の成功で自信を取り戻した彼を待っていたのは、ロシア革命と、もはや故郷へ帰れなくなってしまった境遇であった。スイスを経て、アメリカに渡った彼は、以後25年にわたってピアニスト・指揮者として活躍する(ニューヨークではマーラーの指揮で自作協奏曲を演奏している)が、作曲は殆どしていない。その数少ないアメリカ時代の作品で、彼の最後の作品となったのが、交響的舞曲Op.45(1940)である。当初、舞踊音楽として構想されていたこの作品は、1917年頃から既に「死」の主題に取り組んでいた彼にとって、いまや自らの人生と死を見据えたものとなった。結尾部に第一交響曲の主題がフラッシュバックのように引用される第一楽章、ラフマニノフ流の“死の舞踊”である第二楽章を経て、第三楽章では彼の作品のトレードマークともいえるグレゴリオ聖歌「怒りの日」が主要主題として敷衍される。また、自身の合唱曲『晩祷』の第9曲「主や、爾(なんじ)を崇(ほ)め賛えん」が引用され、死に打ち勝つ力が暗示される。万感の想いを込めて撃ち鳴らされる銅鑼の音のあと、総譜の最後に、彼は「主よ、あなたに感謝します」と書き付けたのだった。

ロシア的憂鬱に満ちた二つの音楽の語る運命と人生は、今なお、それを聴く我々の心を捉らえて止まない。


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