オーケストラ・ディマンシュ第2回演奏会


解  説

 第一次世界大戦後ヴェルサイユ体制下の窮乏に喘ぐ階層の支持を得て躍進し、既に1933年《全権委任法》の成立で一党独裁体制を樹立していた国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の文化政策に少なからぬ衝撃を与える論説が、34年11月25日付『ドイチェ・アルゲマイネ・ツァイトゥンク』紙上に掲載された。論題は「ヒンデミットの場合」、論者はドイツが世界に誇る指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーである。
 ナチスは当初よりその綱領にユダヤ人排斥を掲げ全ての領域に於いて反ユダヤ政策を推進していたが、芸術もその例外ではなく、当時の前衛を“ユダヤ的”なる“退廃芸術”として抑圧・追放するものであったが、その背景には、従来の文化の伝統的様式を脅かす前衛知識人たちの大部分がユダヤ人であり、その脅威をユダヤ人そのものと同一視する保守主義者の歪んだ観点が存在していた。ヴィオラ奏者や指揮者としても重きをなしたヒンデミットは、現代音楽祭や弦楽四重奏団を主宰する等の活躍をしていたが、夫人や演奏仲間達がユダヤ人であった事や、作曲家としての作風が当時の先端をいくものであった事等からナチスの攻撃を受けていた。そして34年3月、その秋に初演を予定していた歌劇から要約編曲した交響曲「画家マチス」がフルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルによって初演されたが、その内容は宗教改革期の中世農民戦争に関わった一人の芸術家を主人公に、当時の社会状況を鋭く反映するものであったためナチスをいたく刺激し、“ユダヤ化”しているとして誹謀されたのである。フルトヴェングラーはこれに対し、前述の論説で(純粋に芸術的見地からではあるが)反論し物議をかもした。世に云う『ヒンデミット事件』である。然し、フルトヴェングラーのその職を賭した擁護(一時的ではあるが彼は一切の公職を辞したのであった)も虚しく、作品の演奏を禁じられたヒンデミットはその後ベルリン高等音楽院教授を辞してドイツを離れ、40年に新天地アメリカに居を構えた。政治という固有の人間的活動によって、しかしこれもまた人間的活動である芸術を、ナチスドイツは又一つ失うことになったのである。
 渡米後のヒンデミットは「アモールとプシケ」、「シンフォニア・セレナ」、鎮魂曲「リラの花最後に戸口に咲きし時」等の作品を発表したが、中でも最も成功したのが43年に発表され翌年初演された「ヴェーバーの主題による交響的変容」である。元来はレオニード・マシーンの委嘱によるバレエとして着想されたものであるが、ドイツロマン派歌劇の祖とも云えるヴェーバーを採上げているのが興味深い。曲は四楽章から成る交響曲的構成を持ち、原曲はヴェーバーのピアノ曲と劇付随音楽から採られているが、既に和声的・旋律的に変容された形で用いられている。全体に調性は保持されてはいるが長短の区別なく、導音的性格を持たない二度・四度の多用や複音楽的構成・変容的技法はここでも発揮されており、「画家マチス」と並んでヒンデミットの代表作といえよう。各楽章はそれぞれ4手ピアノの為の「8つの小品〜ハンガリー風に」op.60の第四曲に従うアレグロ、劇「トゥーランドット」(プッチーニの未完の歌劇で有名)の付随音楽の序曲に基づくスケルツォ、4手ピアノの為の「6つの小品」op.20の第二曲による緩徐楽章、第一楽章と同じ「8つの小品」の第七曲による「行進曲」となっており、何れの楽章も見事に換骨脱胎されて“ヒンデミットの作品”となっている。
 20世紀も終わろうかという今となってはもはやヒンデミットは“現代音楽”ではないが、その運動的音楽はストラヴェインスキー等をはじめとする当時の一大勢力であった新古典主義のドイツに於ける潮流を代表するものとして、音楽史に確たる足跡を標していると言えよう。その意味でも彼は20世紀の“ドイツ的”な音楽家なのである。

 一方、第三帝国の疲弊も色濃い1945年1月28日、ヴィーン楽友協会大ホールは異様な興奮に包まれていた。劈頭、低弦の主要動機に始まった音楽は優美に羽撃(はばた)いたかと見るや次第に切迫感に覆われ、恰も告別の辞であるかの如く各楽章をいとおしむ様に締括りつつ、最終楽章結尾へと怒涛の疾走を見せてゆく。ヴィーン・フィルが此程迄に激高することがあったかと思われる演奏を指揮したのは、翌朝スイス行きの列車に乗り、その後ナチス政権下に戻ることのなかったフルトヴェングラーであり、巨匠のナチス配下での最後の演奏となったその曲こそ、ブラームスの交響曲第二番なのであった。ヴァーグナーと並び“完全にドイツ的”作曲家であるブラームスの作品が、これもまた(歪んだ形ではあったが)“真のドイツ”たろうとしたナチスとの訣別の辞となったのは、まさに歴史の驚くべき偶然であり、また必然であったのかもしれない。(因にその演奏はライヴ録音されており復刻盤CDで耳にする事ができる。)
 ブラームス一派が審査員を努めたコンクールで若き日のマーラーの渾身の作「嘆きの歌」が落選した事からも顕著な様に、ブラームスは一貫して純音楽的な立場を貫いた作曲家であった。もとより古典派以降の作曲家にとって特別な意味を持つベートーヴェンという高峰の聳え立つ交響曲という分野へ、その第一歩を踏標すのに20年余という歳月をかけたブラームスであったが、その間の蓄積は一曲に盛り込むには余りあるものだったか、第一交響曲完成の翌年(1877)に4ヵ月という短期間で二曲目の交響曲を一気呵成に書き上げたのであった。
 この第二交響曲は、本人は友人に“小交響曲”である、とは語っているものの、実際には前作に劣らぬ充実した作品となっている。そして“ブラームスの「田園交響曲」”と評される様に、その曲調の喜ばしさは苦悩に満ち溢れる前作とは比すべくもないが、しかし長調という調性の中にも侘しさや厳粛さといったものが重厚なオーケストレーションや時に短調的な和声付けとも相まって見事に表現されている。曲は伝統的な四楽章制を採ってはいるものの、彼の他の交響曲と同じく緩徐楽章を第二楽章に、スケルツォに代えて独特の典雅な舞曲風の楽章を第三楽章に、それぞれ置く。又、冒頭に短二度の3音による動機が全曲を通して支配的であり、この様な強力な動機法は彼の他の交響曲にも共通して見られるものである。
 彼はこの作品の大部分をヴェルター湖畔のペルチャッハで、そしてバーデン=バーデン郊外のリヒテンタールという何れも風光明媚な土地で書き上げたが、その自然を描いたと言うよりも、その様な自然の中にあってなお喜怒哀楽の生を営む人間とその芸術の諸様相を表わしたものだろう。古典的様式美に依り乍ら浪漫的精神を呈すこの曲がやはり“ドイツ的”である事に異論の余地はない。

 遠く独逸の浪漫を現代日本の若人達が如何様に咀嚼したか、が、甚だ僭越ながら本日の眼目である。


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