オーケストラ・ディマンシュ第3回演奏会


解  説

 色恋沙汰というのは何時の時代も人々の興味をひくものらしい。電車の車内吊広告にみられる「スクープ!」や「独占手記」の類の氾濫をみればうなずいて頂けるだろう。ドラマにせよ、映画にせよ、男と女の関係は最も身近で、且つ、深遠なるテーマの様だ。文学・演劇・映像、何れの分野もこれを避けては通れないように見える。勿論、音楽においてもしかり。明るいか暗いかは別として、大概の歌はラヴソングといって差し支えない。(まあ、どこかの国の巷に溢れる「アイドル」とかいう人種の歌の中には歯が全部抜け落ちそうで聞くに耐えないものも多いんだが)。そして、これは「クラシック」と呼ばれるジャンルの音楽でも同様の事が言えるだろう。宝塚歌劇団が好きな人なら、グランドオペラなどは違和感なくのめり込めるのではないだろうか。禁じられた恋、身分の違いを乗り越えて心をかわす主人公達、三角関係のもつれ、助平な悪代官、どれもこれも有名な歌劇に出てくるものばかり。「クラシック」なんて名前に惑わされちゃぁいけない。当時の人々(とはいえ、その殆どは貴族階級だったといえるが)がこぞって集う劇場の「場」としての意味あいは、さしずめ、ジュリアナ・トーキョーやクラブ・クワトロ等とたいして変わらなかったに違いない、といったら言いすぎだろうか。だが、有名な歌劇、特に喜歌劇などには、実に他愛ない、しかし愛すべきものが多いのも事実ではないか。こうした音楽が当時の人々の暮らしの中に息づいていたという点では現代と同じ、と考えてもあながち間違いではあるまい。(勿論、今となってはその一部しか知られていないようなものも多いのだが)。
 「どろぼうかささぎ」もそうした他愛ない内容のオペラ・ブッファの一つである。ロッシーニ25歳の作品であるが、すでに歌劇作曲者として円熟の域に達していた頃の作品(かの「セヴィリヤの理髪師」の2年後)で、音楽的には優れているものの、どうやら台本のおかげで、今となってはその序曲のみがとりあげられるようになっている。(ドラマ自体はぱっとしないが主題歌が大ヒットしたようなものか。)鵲(かささぎ)という鳥は“光リモノ”が好きだそうで(人間にもいるが....)、紛失した銀の食器をめぐる騒動で捕えられた娘の嫌疑が晴れて、最後は身分の違いを超えて愛しあう若い軍人と結婚してメデタシメデタシという、書くだけでも場面が思い浮かぶような筋書。音楽は展開部を欠くソナタ形式で、ロッシーニ得意の洒落気たっぷりの華麗なものとなっている。

 さて、この「身分の違い」というのは、男女の先行きを阻む障壁としては格好のものの様で、金持ちと貧民・貴族と娼婦・主人と使用人(こう書くとなんだか「へっへっへ、奥さァん」の世界みたいだが)等など、枚挙にいとまはない。その代表格は、かの「椿姫」(そういえばこれを現代風に翻案した「プリティ・ウーマン」なんて映画もあった)といえよう。この様な設定は、貴族の娘とそのピアノの家庭教師である青年音楽家、という二人にもあてはまる。そう、若きシューベルトを主人公に描くW.フュルスト監督の映画「未完成交響楽」である。「我が恋の終わらざる如く、この曲もまた永遠に終わらざるべし」などと、勿論史実に基づいたものではないが、しかしこの「交響曲第8番」はそんなラヴストーリーにも違和感の無い程のロマンティシズムを湛えている。
 何故シューベルトがこの曲を未完に終わらせたのかは謎であるが、これがロマン派交響曲の高峰である事に異論の余地はない。例えば、第1楽章第1主題の木管の歌はロ短調とニ長調の間を揺れ動くが、このニ長調という調性は主調であるロ短調にとって平行調にあたるわけで、それは古典派からすれば第2主題のためにこそとっておかれるべき調なのだ。このような調性の設定は明らかに音楽形式を超えて、情緒的な何かを表現するものになっている。これこそがロマン派の音楽といってよいだろう。結果論ではあるが、2楽章で終わっている事も曲の余韻を残すという点で聴衆の情緒に働きかける度合を増しているように思える。「未完成」とはいいつつも巧妙に造られた「完成」した音楽であるといえよう。

 シューベルトはその後、ベートーヴェンの死に触発されてその壮大な遺風を継ぐべくしてか、晩年に9番目の交響曲(「グレート」)を作曲した。ところがこれは彼の生前には演奏されず、暫く日の目を見ることがなかった。これを発見し、上演に尽力したのが、シューマンである。シューマンがベートーヴェンの墓上に一本のペンを見つけ、このペンを用いてシューベルトの「第9番」の紹介文を著し、そして自身の第1交響曲のスコアを書き上げた、という逸話が残っている。どこまで真実かは分からないが、古典派からロマン派へと受け継がれる交響曲の歴史を如実に物語る逸話である。
 よくシューマンの管弦楽法は未熟であるかの様にいわれることが多く、実際、マーラーの補筆が伝えられたり、現代でも指揮者によって若干の手直し等を入れた状態で演奏されたりしている。だが、「形」でなく「情」を前面に据えたものと捉えれば、成る程ロマン派なのだ、と言う事もできようか。第3交響曲第4楽章でのトロンボーン3本(!)のカノン風の展開(!!)を聴いて見たまえ。この楽器にこんな事をやらせるなんて、古典派からすれば正気の沙汰ではないだろう。また、所謂「不具合」とされる様な点については、一般的な感覚とは異なるといった意味で、彼の精神疾患も関係するのかもしれない。
 彼の4曲の交響曲は、実際の作曲順は1−4−2−3という順番で書かれたものである。何れも古典的な形式からはやや外れた性格を持ち、一種交響詩的な面さえ持っている。「交響曲第2番」は3曲目の交響曲として彼が35歳の時に作曲された。ちょうど精神疾患が現われ始めた時期である。ハ長調という王道ともいうべき調性で書かれたこの曲も、管弦楽法や構成などに古典派にはあてはまらない、やや奇異な部分が散見されるが、これもロマン派の作品として捉えれば納得できないものではなかろう。シューベルトと並びメロディメーカーたる彼の資質が存分に発揮された作品として、その輝きは失せることはない。

 ところでシューマンを語る際には、熱愛の末に結ばれたその妻クララの存在を忘れてはならないが、そこまで言及するにはもはや紙幅が尽きた。ブラームスとクララを引き合いに出して、色恋の話題になんとかこじつけようとする筆者の目論見はあえなく崩れさったというべきか。ともあれ、何れの曲もそれぞれの作曲家が当楽団の団員達とほぼ同じ世代の時に作曲したものばかり。多少なりとも時間を超えて共鳴しあう「情」を聴き取っていただく事ができればさいわいである。


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