オーケストラ・ディマンシュ第6回演奏会
ブダペストを二分して流れるドナウ河の左に位置するシュガール通り(現在のネープケスタールシャシャーグ通り)にその部屋はあった。若きピアニスト、トマーン・イシュトヴァーンはいつものようにピアノのレッスンに師のもとを訪れたのであるが、彼の弾いた狂詩曲を聴いた師はいつになく悲しげに呟いた。「これは、それではない....」。トマーンは驚くと同時に、師のいわんとする事も充分に理解できた。これは真のハンガリーの音楽ではない。真のハンガリーの音楽はほんとうの民族の歌から導かれるものでなければならない....。最晩年にして達した結論、それは老師にとってあまりにも厳しい現実であったが、その現実が『死のチャールダーシュ』という作品として残されたのであった。まさしくそれが、永遠の探究者としての本質を自らの師ツェルニーを通じてベートーヴェンから受け継いだリストの到達点である。そして、晩年のリストが遥かに望んだ高みへと到達しえたのが、リストの高弟であったトマーンを通じてその心を受け継いだ、バルトーク・ベーラ(1881〜1945)そのひとだったのである。
リスト音楽院時代からの朋友で、同じくハンガリーを代表する作曲家として『ハーリ・ヤーノシュ』などで知られるコダーイ・ゾルターンが民族音楽の採譜の旅を国境を超えてまではしなかったのとは対照的に、バルトークは民族の歌の根源(それは即ち、彼の構成原理が立脚すべきものである)を求め、隣接するルーマニアをはじめとしてトルコや北アフリカまでも足を延ばした。その民族音楽研究がバルトークの音楽の基礎であり、彼の作品の構成原理である黄金分割や中心軸システムと呼ばれる音組織を導いたのである。バルトークの音楽は12の半音を均質に扱うが、それは5度関係の連鎖にはじまる和声の諸原理が組み込まれた綜合的音組織としてであり、調性の否定・分解に立脚するシェーンベルクの12音システムとは本質的に異なるものである。バルトークはあくまでもハンガリー人として、新しく、そして真のハンガリーの音楽を創造しようとしたのだが、『中国の不思議な役人』『弦楽器、打楽器とチェレスタの為の音楽』『青髭侯の城』など、それらは単なる民族主義の作品に止まらず、西洋音楽の伝統から更に進んだ二十世紀の音楽となったのだった。古(いにしえ)の音楽に目を向けつつ、新たなる音楽を創造した天才として、バルトークは二十世紀を代表する作曲家の名に相応しい。
1940年10月、バルトークは祖国がナチスに蹂躙される前に断腸の思いで渡米する。亡命後の生活が苦難の連続であったことは、ファセット著「バルトーク 亡命の悲劇」(みすず書房刊)に詳しい。困窮と治療困難な病が彼の体を次第に蝕んでいったのである。そんなある日、病床のバルトークを訪れた指揮者セルゲイ・クーセヴィツキーが自身の生誕70年とボストン響指揮者就任20周年を記念した作品を依頼する。実はこれは作曲委嘱の形での同郷の音楽家たちによる援助であったという。だが、渡米以来沈んでいたバルトークの創作意欲はにわかに回復の途を辿り、1943年の夏から秋にかけての数ヵ月という短期間のうちに華麗な作品となって結実したのである。これが『管弦楽のための協奏曲』(1944)である。続く第3ピアノ協奏曲とともに、この作品はバルトークの音楽の新たな地平を拓くものとされる。曲は、全曲の重要な主題が提示される「序奏」、黄金分割的な音程関係が隠された「対の遊び」、全体の中点として重きをなす「悲歌」、民謡調のなかにショスタコーヴィチを皮肉るパロディが顔を覗かせる「中断された間奏曲」、そして、複合三部形式を基本にもちながら直線的な発展をも見せる「終曲」の5つの楽章からなる。特に最終楽章での生気に充ち溢れる様は、自らの死を直視した者の心情が伺える(死と生の連環を想起させる)のではないだろうか。この作品の初演(1944)後わずかで、妻ディッタに捧げる第3ピアノ協奏曲の完成にあと17小節を残してバルトークは他界する。自身の音楽に終止符を打つにわずかにはやく、死が彼の人生に終止符を打ったのであった。
ところで、ベルリオーズからリストへと続いた動機法の系譜は現代では特に映画音楽に見られるだろう。ジョン・ウィリアムスの『E.T.』や『スター・ウォーズ』等でもライトモティーフ的な扱いを見ることができよう。
閑話休題、リストが構成原理の探究者としてベートーヴェンを受け継いだとするならば、ここにまたひとり、リストやそれに続くヴァーグナー、マーラーとは異なるながらも作品に揺るぎない構成を求めた作曲家がいる。彼はベートーヴェンを受け継ぐべく、自身の最初の交響曲を世に問うために実に20年余の歳月を費やしたのであった。ヨハネス・ブラームス(1833〜1897)である。当初よりヴァーグナー派に対し純音楽の立場を貫く彼が、古い音楽語法を駆使して練り上げたのが、ミュルツシュラークという避暑地で作曲された交響曲第4番(1884)であった。彼もまた、ドイツ、オーストリアの自然の中にあって音楽を紡ぎ出す作曲家であり、時にハンガリー風の旋律なども用いた(ハンガリー風舞曲を終曲に持つピアノ四重奏曲を後に管弦楽化したのがシェーンベルクだったというのは興味深い偶然だ)が、民族音楽に導かれた作曲家ではなかった。しかしこの作品は、過去の音楽から導かれた、彼にとっての新たなる音楽となったのである。従来とは異なり呈示部の繰り返しを持たない第一楽章、教会旋法のフリギア調による第二楽章、スケルツォのかわりに武骨な舞曲風の第三楽章、そしてかの大バッハもかくやと思わせる程の荘厳なシャコンヌ(厳格な形式を持つ一種の変奏曲)の終楽章、何れも寂寥感に充ち、枯淡・憂愁・諦観に彩られている。終楽章のシャコンヌ主題はバッハのカンタータ『主よ、われ汝を望む(Nach dir,Herr verlanget mich)』に基づくものだと伝えられるが、シャコンヌの形式を厳格に守りつつも同時にソナタ形式的な要素も併せ持つことを考えると、ブラームスは単に過去の音楽語法だけを借用したのではなく、そこに新たな構成原理を見い出そうとしたといえる。そして、ドイツ音楽の系譜はまさに過去に立脚した構成原理の探究にほかならない。