オーケストラ・ディマンシュ第7回演奏会


解  説

 第一次世界大戦後、ヴェルサイユ体制下の窮乏に喘ぐドイツで、1933年に《全権委任法》の成立によってドイツに於ける一党独裁体制を樹立した国家社会主義労働者党(ナチス)は、徹底したユダヤ人迫害政策の一つとして、政治的側面のみならず文化的活動に対しても積極的な破壊的活動を行った。その最たるものが、1937年にミュンヘンで開催された“頽廃芸術展”である。挫折した画家という過去を持つヒトラーにとって、前衛芸術は堕落した資本主義の産物として忌むべきものであった。本来、犯罪学的に異常な心理状態を指し示すこの“頽廃(entartete)”という言葉は、ナチスのイデオロギー推進者達によって保守的な文化批評に奉仕するために応用されたのであった。そして、この言葉はまた音楽に対しても用いられ、人種的な芸術政策・非伝統的な前衛に敵対する芸術政策として多くの音楽家が誹謗・弾圧され、その標本として1938年デュッセルドルフで“頽廃音楽”展が開催された。ちなみに、こうしたアーリア人の優越性という人種的教義に対して、バルトークは“頽廃音楽”のレッテルを自らを讃える肩書きと見做し、自分の作品をこの展覧会に飾るべきであるとドイツ政府に要求したという。さて、一方でナチスは政権奪取の年に帝国音楽院の総裁として既に世界的名声を得ていた作曲家を奉り上げた。リヒャルト・シュトラウス(1864〜1949)である。
 ポスト・ヴァーグナーの作曲家として、「サロメ」をはじめとするの歌劇を次々に発表した彼は、紛れも無く当時ドイツを代表する音楽家として不動の地位を獲得していた。しかし、彼の創作活動の主要分野は歌劇だけではなく、各地の宮廷劇場の楽長を歴任していた20代から30代にかけて、もうひとつの分野、交響詩(Tondichtung)において傑作を多数生み出したのである。シュトラウスの交響詩は、ベルリオーズの自然主義とリストの理想主義を総合し、よりリアリズムの方向を新たに目指すものであった。Tondichtungという言葉が示すように、リスト的な標題の詩的観念の重視よりも、“交響的描写”ともいうべきものになっており、その題材も詩人によるものから哲学・風景、はては自分の半生まで多岐にわたる。その中で、実在の人物といわれる中世ドイツの遍歴職人を主人公としたものが『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯』(1895)である。ティルの物語は1510〜11年に当初95編を収めた民衆通俗本として印刷出版され、様々に書き加えられ現在に伝えられている。ファウスト博士が学問探求して破滅するドイツ的悲劇の人物であり、ドン・ファンが色恋を求めて破滅するのに対し、ティルはあくまでも逞しく、民衆のエネルギーと悪知恵を生かして教皇を頂点とする既成社会の権威と秩序を批判する。だが、シュトラウスにあっては、こうした諷刺的な側面よりは寧ろティルの天衣無縫・縦横無尽の活躍ぶりを、巨大な管弦楽を用いてまさに職人芸的に表現したものとなっている。

 シュトラウスはその後、1935年にユダヤ人作家ツヴァイクの台本による歌劇「無口な女」の上演を巡ってナチスと対立し、総裁を辞職、以後政権との関わり合いを避けた。さて、同じ時期に、ナチスによって“頽廃”とされ、職を奪われ国外へと居を移さざるを得なくなったドイツ人音楽家がいた。パウル・ヒンデミット(1895〜1963)である。そして、1934年11月25日付けの《ドイチェ・アルゲマイネ・ツァイトゥング》紙上で自らの職を賭してヒンデミットを擁護したフルトヴェングラーの論説「ヒンデミットの場合」が論じた作品が、歌劇『画家マチス』であった。これはマティアス・グリューネヴァルトとしてその名前が伝えられる画家を主人公にした歌劇であるが、歌劇の初演に先立ち、その主要な部分を編曲要約して34年4月にフルトヴェングラーによって初演されたのが交響曲『画家マチス』(1934)である。マチスは近年の研究によれば本名を「マチス・ナイトハルトまたはゴートハルト」という宗教改革期の実在の人物で、大司教に仕える画家であったが中世農民戦争に関わり改革派に荷担した。歌劇は、自分の芸術とは誰のためのものかを自問する主人公の苦悩を中心に、権力と芸術の関係について当時の社会情勢を鋭く反映するものであったため、以前より作品の前衛性や交友関係からヒンデミットを敵視していたナチス当局をいたく刺激したのであった。交響曲は3楽章から成り、それぞれ「天使の奏楽」(歌劇の序曲、素材は第6幕)、「埋葬」(第7幕の間奏曲と最終場面)、「聖アントニウスの誘惑」(第6幕の主要個所)の標題が付されている。この標題はまた、マチスの代表作であるアルザス地方のコルマールにある《イーゼンハイムの祭壇画》(1512〜15年作)と対応している。そして、この作品を転回点としてヒンデミットの作風はドイツ芸術の伝統による和声機能を生かした新古典主義的なものへと移行する。
 《ヒンデミット事件》と呼ばれたこの紛争のあと、結局、歌劇はドイツ国内では上演されず、ヒンデミットはベルリン高等音楽院教授を辞してドイツを離れた後、40年に渡米し、「ヴェーバーの主題による交響的変容」などの作品を次々と生み出した。ドイツ音楽の優位性を保とうとしたナチスにとっては、こうした芸術政策はまさに両刃の剣だったといえよう。

 ところで、ヒンデミットは自作歌劇からの編曲要約で交響曲を創ったが、これは、作曲家にとって《交響曲》というものが持つ意味が、ブラームスの時代からマーラーを経て変わってきた事を示しているように思える。シューマンやシューベルト、ブラームス達にとって、《交響曲》というのはまさに峻厳たる高峰であり、自己の創作活動の中でも最も純化されたものでなければならなかった。そして《交響曲》をそうした地位に引き上げたのは、まぎれもなくルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770〜1827)であった。9曲の交響曲のうち、『英雄』、『運命』、『田園』、『合唱付き』などの通称はないもののそれらと並んで人気の高い作品が『交響曲第7番イ長調』(1812)である。ここで、明確な標題性を持つ第6番という試み(それはベルリオーズに引き継がれる)のあとに取り組まれたのは、特徴有るリズム音形で全体を統一するというものであった。リストはこれを「リズムの神化」と呼び、ヴァーグナーは「舞踏の神化」と呼んだ。特に両端楽章の生命力に満ち溢れる様は聴く者を唸らせずにはおかない(実際にこの曲で踊れる人物を筆者は知っているが....)。この曲が作曲された1812年はナポレオンが対ロシアに敗れた年であり、初演は1813年の「ハナウ戦争傷病兵のための慈善演奏会」で『ウェリントンの勝利』Op.91とともに行われた。このことからわかるように、当時の社会状況は対ナポレオンという愛国的気勢があがっていたが、それが曲の雰囲気にどれほどの影響を与えているかは想像の域を出ないが、しかし、革命的人道主義者を自負していた彼にとって、独立戦争は心をかきたてられるものであったことは理解できよう。

 思えば、ベートーヴェンでさえ、彼の時代における先駆者であり前衛であった。そして社会と関わりあいながら創作活動を行った。そうして生み出された作品は“頽廃的”であるか?否、逆にそうした作品こそが次代の礎となり、伝統を創っていったのだ。そして本日演奏するこれら3曲の何れもがドイツ音楽の伝統の各々の様相であることは言うまでもない。


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