オーケストラ・ディマンシュ第8回演奏会
Couple, adieu ; je vais voir l'ombre que tu devins
(対の女よ、さらば うつろえる汝が影を われは眺めむ)
よく、ブラームスやブルックナーの交響曲などを絶対音楽と呼ぶのに対して、描写音楽、或いは標題音楽と呼ばれる作品がある。よくよく考えてみると“絶対”音楽、というのも何だか不思議な呼び方なのだが、「音そのもので勝負!」という意味なのだろう。そういう意味では、武満徹の『ノヴェンバー・ステップス』なぞは究極の絶対音楽だろう。いや、ベリオの『シンフォニア』も物語としての意味をもつ言葉だけでなく音響としての言葉、単語以前のプリミティヴな発音までも駆使した技法から考えれば、これもまた立派な絶対音楽だ。などと、いきなり話が本題からずれてしまった。話を戻そう。標題音楽、というと、どうしても、ある具体的なプログラム(標題)に基づいてその情景・事物を音で表わしたもの、という解釈になる。確かに、それは間違いではないし、レスピーギの『ローマ三部作』やグローフェの『大峡谷』など、特定の情景をありありと描写して見せる傑作もすぐに思いつく。しかし、音楽という芸術が、絵画や写真・彫刻や文学などと本質的に異なるのは、それらの作品はオリジナルがメディアそのものであるのに対して、それを記録し伝えるためには別途のメディアが必要な、音という瞬間的な物理現象で成り立っている点であろう。そして、作品そのものがメディアである場合でさえ、より具体的に伝えられるイメージもそれを鑑賞する側にとって様々に解釈されるという事実からすれば、音楽によってもたらされるイメージは、例えそれがある標題に基づいていたとしても、より一層の多様な解釈を生み出すのだ、ということは言うまでもないことであろう。それが所謂「絶対音楽」であれば尚更なのだが、「標題音楽」であっても、そのプログラムを単純になぞるものではない。うつろいゆく光線を一枚のキャンバスに閉じ込めようとした「印象派」と呼ばれた画家達よりも、視覚世界の裏側にある本質を表現しようとした「象徴主義」と呼ばれた画家や詩人たちのように、標題や情景の示す「アパランス(APPARENCE 外観・仮象)」のみならず、目に見える世界の奥の「レアリテ(REALITE 現実・実在)」をも表現しようとしたのが、武満も最も関心を抱いていたフランスの作曲家、クロード・ドビュッシー(1862-1918)である。
ドビュッシーの名を不朽のものとし、さらにブーレーズが「現代音楽はこの曲とともに目覚めた」と評する作品が、『牧神の午後への前奏曲』(1892-94)であった。ボードレールの詩法をさらに発展させた象徴詩人、ステファヌ・マラルメの「半獣神の午後」に寄せて書かれたのが、この作品である。午睡から醒めた半獣神が水の精たちを追う様を描いた詩に寄せられたこの作品は、しかし、詩の情景をなぞるものではない。エピグラフに引用した一節はこの詩の最後の一行であるが、これを敷衍したものがこの作品であると、ドビュッシー本人は語っている。あまりに有名なフルート独奏の主題で覚醒めた曲は、水の精を追う半獣神の欲望と夢のパラフレーズを経て、サンバル・アンティークの清冽な響きとともに再び陶然とした睡りへと落ちて行く。
『牧神』の後、「音楽とは、その本質上、厳格で伝統的な形式の中にはいりこんで流れて行けるものではない。音楽は、色と、リズムを持った時間とでできている....」と書き送ったドビュッシーの確信は、「3つの交響的素描」と名付けられた作品で、音に時間と運動のかたちを与える素材として、自然の流動する様相を選ばせた。『牧神』と並んで彼の代表作とされる『海』(1903-05)である。<海の夜明けから真昼まで><波の戯れ><風と海との対話>とそれぞれ題された各楽章は、従来の交響曲の形式には当てはまらない。自然の移り変わりを、単なる情景描写ではなく、見事な音色変化、主題変容でありありと描き出しているが、描写音楽ではない。初版楽譜の表紙には、葛飾北斎の「富嶽三十六景」の一葉が印刷されていたが、特定の海を描いたものというよりは、あくまでも、海の持つ流動性を音で表現したものである。
ドビュッシーは現代音楽の扉を開いたが、その70年ほど前、ベートーヴェンの死後僅か3年後に、標題音楽として最大の作品が生み出されていた。エクトール・ベルリオーズの『幻想交響曲』(1830)である。「ある芸術家の生涯の挿話」という副題を持つこの作品は、後にヴァーグナーの「指示動機」として結実する「固定観念」の導入、弦楽器のコル・レーニョやトロンボーンのペダルトーンなどの新しい演奏技法、舞台裏から聞こえるという空間的なオペラ手法やドラマの導入による明確な標題性、などなど、その革新性については紙面がいくらあっても足りないのだが、端的にいえば、脈絡のない夢というものの構造と本質をリアルに描き出したものだ。当時の人気シェークスピア女優であったハリエット・スミッソンに熱烈に恋した情熱的な青年作曲家ベルリオーズの失恋体験が、この奇怪な交響曲の発端である。「恋に破れ、失意のうちに阿片を大量に飲んだ芸術家が見る夢」の世界は、第三楽章結尾に轟く遠雷を転回点として、まさしく悪夢の世界へと変容していく。この部分を、「夢の中の現実から夢の中の夢への分岐点であり、“魔の刻”である」と評するむきもある(詳しくは http://www.inetc.roland.co.jp/~kurata/berlioz/berlioz.html 参照。倉田わたる氏のベルリオーズ論はその文章表現力と相まって、一読すべきものである)。まさにこの作品の5つの情景は完全に連続した物語ではなく、断続的な、理論的明晰さを保証されない夢の構造を保持しつつ、しかもなお聴衆に強烈な視覚的イメージを与える作品である。
一瞬でうつろいゆく「音」の描き出すイメージ、それは聴く側にとって一人一人違うものであるはずです。様々なイメージが今日、同じ時と場所を共有している私たちと皆さんの間に羽撃くことを願ってやみません。